スタンフォード日本センター
コラム English
 
関西のブランド
浜口智志
京都大学エネルギー科学研究科 助教授
スタンフォード日本センター リサーチフェロー

 関西の言葉は美しい。最近そう思うようなった。私は横浜に生まれて東京で育ち、京都には5年前から住んでいる。関西に住むのは京都が初めてである。父は大阪に生まれて徳島で育ち、母は長崎県五島列島の出身だから、我が浜口家はもともと西日本文化圏に属するはずだが、両親が家庭で基本的に「標準語」を話すうえ、親戚付き合いもあまりなかったため、私は、自分は根っからの関東人だと思い込んでいた。子供のころ、我が家の雑煮が白味噌仕立てであることを近所の子供に驚かれ、こちらが驚いた覚えがあるが、多分これが、わが身のルーツを考えさせられたほとんど唯一の幼少時代の体験である。ちなみに、関東では、雑煮は醤油ベースと相場が決まっているらしい。

関西の言葉といっても、京都、大阪、神戸といった各地域によってかなり異なるが、関西に引っ越してくる以前はみな同じに聞こえた。関西の人は皆知っていると思うが、関東地域においては、関西の言葉のイメージは余りよくない。関西「弁」とよばれ、「標準語」の域に到達していない諸言語のひとつであると、東京近辺では勝手に思われている。なお、関東の言葉が東訛(あずまなまり)とよばれていたことや、ひなびた家の意味の「東屋(あずまや)」の語源が、「東国風の家」であることを知る(あるいは意識している(東京人は少ないであろう。言葉は文化と切り離せないので、関東人にとって関西の言葉の響きが一般に良くないのは、関西文化のイメージが全体として余りよくないためである。日本の他の地域における関西のイメージがどうかは知らないが、少なくとも東京近郊では、関西文化は上方落語や漫才、やくざ映画などを通して紹介されることが多く、そのため、「関西弁」は温和な口調では「コミカル」、強い口調では「怖い」という印象を与えている。唯一の例外といってもよいのは祇園言葉で、こちらも、やはりマスメディアを通して、上品で古風な印象を持つ言葉になっている。谷崎潤一郎などの愛読者で、上方の気品のある文化に精通している人は別だが、関東では一般に、関西に対する上述のようなステレオタイプが横行している。

このような関西「弁」、ひいては関西文化に対するゆがんだ先入観を放置しておいてよいものだろうか。この関西経済の危機的状況のなかで、関西弁の印象などよりも、他に直さなければならないことはいくらでもあるだろう、と考える方々も多いと思うが、言葉の問題は本当に副次的なものだろうか。現在政府がすすめている国と地方の税財政改革(三位一体改革)の最終目標は、日本の中央集権制度に終止符を打ち、東京もふくめた各地方が自立し、競争を通して独自の方法で活性化を図り、個性的な文化を持つ豊かな地域社会の連携としての日本国を作っていくことであり、このような制度改革はグローバル経済競争のなかで日本が落伍しないためには避けられない社会改革ではないか。そうすると、関西も、日本はおろか、世界各地から優秀な企業や人材を招いて地域の活性化を図らなければならないはずだが、こんなとき、関西に転勤するビジネスマンが、「うちの子が関西弁を話すようになったらいやだなあ。」などと思うようであれば、大変なことのはずである。

差別というのは、悪意のないときがもっとも扱いにくい。このような差別は、「無知」と「無関心」に依拠している。関西の敵、全国マスメディアは、いまも関西攻撃をゲリラ的に続けている。例えば、外国映画の翻訳版や漫画・アニメなど、本来、日本の特定の地域と無関係なストーリーで、「関西弁」が出てくるは要注意である。格好よく、洗練されたヒーローやヒロインは「標準語」を話し、関西弁を使うのは、だいたい、ひとくせある役か、ひどいときは悪役である。差別の撤廃が社会の安定的発展に不可欠と考える米国では、いろいろな団体がマスメディアを厳しくチェックしており、メディア側も差別的表現に対しては、間接的なものに対しても非常に細かく神経を使う。例えば、映画などでの犯罪者役は、特定の人種にかたよらないように常に配慮されているし、オペラやバレエなどでは、中世ヨーロッパが舞台の物語でも、いろいろな人種がヨーロッパ人として配役されるなど、可能な限り、人種や性別、その他に基づく先入観を排斥するような努力がなされている。関西の発展を心から願う我々としても、同じように、コメディ系の登場人物だけが関西弁を話すアニメやドラマを本格的に告発する運動をおこすべきはないだろうか。これまでも、そのような苦情がドラマ製作者などに届いたこともあったかもしれないが、そうした問題提起に対して製作者側が公に謝罪するようなニュースを私は聞いたことがないので、まだ、「無意識」の先入観を「意識」レベルに高める十分な努力がなされているとは思われない。

「標準語」の浸透により、各地の方言がだんだん消えていくと聞いている。それと同時に、最大公約数的な東京の文化に飽き足らず、地方の文化の伝統や美しさに魅力を感じる人々も確実に増えていると思う。人間は本来的にバランスをとるようにできているようで、一極集中がすすむと、それと反対の流れを自ら作り出そうとするようである。これと同じ流れが、もっと大きなスケールで、世界を舞台としても起こっているようである。第二次大戦後および冷戦後の米国の国力と、航空機をはじめとする高速大量輸送網とインターネット等の高速通信網の発達により、現在、英語が世界語として定着しつつある。しかし、これと並行して、米国とその他の先進国・発展途上国と間の経済力の差は着実に縮まりつつあり、様々な地域の特色ある文化に対する人々の関心はますます高まってきている。関西には、そこに住む人々をはじめとして、伝統文化から最新の流行にいたるまで、美しいもの、魅力的なものが極めて多い。関西が、本格的なブランドマネジメントに乗り出すのに、今、まさに機は熟しつつあるのではないだろうか。