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English |
| 長崎は和華蘭 |
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| 金村公一 スタンフォード日本センター リサーチフェロー 県立長崎シーボルト大学 国際情報学部 情報メディア科 助教授 |
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はやいもので、1999年、開学と同時に私が東京から赴任したシーボルト大学も、5年目の夏を迎えようとしている。しかしながら、日頃の忙しさと、大学のすぐそばにある教員宿舎と大学の往復にかまけて、未だに長崎の地理にも不案内で、わからんことずくめで、なんとも情けない。 最近、テレビをつけると、ついこの春まで、いつも研究室に顔を出してくれていた学生が、「長崎地方、明日は雷がなります。・・」と天気予報を伝えていた。私は、天気予報よりも、学生(失礼、もう立派な社会人)の顔つきをみて、「元気かな、先輩にいじめられていないかな、視聴者の皆さんかわいがってやってくださいね」などと関係のないことばかり考えて見ている。まだ、最初の卒業生が社会にでたばかりで、大学の歴史はまだ浅く、ひよっこだ。しかし、当地では由緒ある前身の長崎県立女子短大からバトンタッチを受ける形で誕生したから、新設大学とはいえ、伝統はどこかに受け継がれている。たとえば、大学の名前がそうである。県立女子短大は、長崎市の鳴滝というところに学舎があった。そこは、昔、シーボルトが鳴滝塾を開いた場所で、蘭学者高野長英もここで学んでいる。なんでも、新大学の校名は、鳴滝塾大学かシーボルト大学のどちらにするか、県民の声を集めて決められたそうだ。長崎の人々が、全国の国公立大学で初めてのカタカナ名を校名に選んだのも、江戸時代の長崎を思えば、当然かもしれない。 奇妙なたとえ方だが、長崎は私にとって、アメリカのグランドキャニオンやモニュメントバレーと同じような面白さがある。あるとき、モニュメントバレーを現地のインディアンに案内してもらって歩いた。ガイドは、切り立つ赤土の山々につけられた名前の由来を熱心に教えてくれていた。だが私は、目の前に地層の縞がうねり、化石が転がっているのを見て、「これが理科で勉強した地層の実物だ。太古から未来へと緩やかに続く地球の営みが手に取るように現存している。」と、ガイドには悪いが、勝手に訳のわからない感動をしていた。 長崎はそれと似て、日本・中国・西洋の文化が地層の縞模様のように混在している。しかも、それが現役で、社会や人々の生活と共に生きている。寺町には、仏教の起源を物語るような中国寺が並び、甍をあらそっている。長崎を代表する秋祭りの「くんち」(旧暦9月9日の祭が語源らしい)で奉納されるだしものでは、曳物といって唐人船、御朱印船、竜宮船、和蘭陀船、南蛮船など、和華蘭の船形が競い合う。祭りの期間の始めに行われる「庭見世」は、当番の踊町の旧家に、祭りで使われる着物、装飾品などを展示し、誰にでも見ることができるよう開放される。実は、こうしたしきたりは隠れキリシタンの弾圧に対する自衛策として、「キリスト教を信仰していないことを示すため」に、敢えて道行く人々に家の庭まですべてを公開したのが起源だという。朱塗りの丸卓に大皿にのせてふるまわれる卓袱料理も、禅宗の普茶料理の様式を基礎に、和華蘭の折衷献立で、砂糖を多用した甘い味付けが特徴である。 大学で私は、情報政策論など講義やゼミの他に、デジタル映像制作演習を担当している。デジタルノンリニア映像編集システムが、学生達の自由な制作を可能にしている。これもデジタル技術による映像情報制作の民主化の恩恵と言えるかもしれない。ある時、学生達が作った映像作品に、原爆を題材にしたものがあった。原爆投下時の惨状を生々しい言葉で、語り部の老婆が伝え、被爆し喉頭ガンを患った人が、咽の振動を電子音に換える機械を使って被爆体験を語る映像は、見るものを強く引きつけた。どうやって、語り部を見つけたのかと問えば、「私の祖母です」、「近所のおじさんです」と普通に答える。 長崎には、300年以上にわたる和華蘭の文化が現存するのみならず、戦争という人類の所業の証さえも現存している。大自然を目の当たりにして、改めて自然の偉大、悠久を感じるのだが、長崎のそこかしこに日本の近代化の道のりをしっかりと反芻、検証できる有形無形の文化資産と人々が同居している様を見るにつけ、これを記憶、伝承し、ここから日本の現代文化を体現することに、何かしら私も参加できないかと考える今日この頃である。 |
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