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English |
| 「情報自由論」連載を終えて |
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| 東浩紀 スタンフォード日本センター リサーチフェロー 国際大学グローバル・コミュニケーション・センター 助教授/主任研究員 |
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| ひと月ほどまえ、『中央公論』誌で「情報自由論」という連載を終えた。2002年の初夏から足かけ1年半、情報社会と自由をテーマにした長い論考だ。著者自ら宣伝するようで品がないが、この連載はそれなりに好評で、いま国際大学グローバル・コミュニケーション・センターや経済産業研究所で仕事をさせていただいているのも、本論がきっかけである。中村伊知哉氏と面識を得たのはその経済産業研究所でのことだったから、ここでリサーチフェローとしてコラムを書いているのも、遠く辿ればその「情報自由論」から始まった縁だと言える。 ところで、この「情報自由論」の企画は、もともと筆者の持ち込みで始まったものである。コンピュータやネットワークの話題は、いまやきわめて大きな政治的な意味を帯び始めている。しかし、筆者は、かねてより、日本の論壇誌は情報技術系の話題をあまりに軽視しているのではないかと感じていた。そこで、個人情報保護法案が成立し、住基ネットが稼働し始めると予想されていた2002年の初めに、『中央公論』誌編集部に、情報技術と政治の交点を探るような抽象的な論考を連載させてくれないか、と相談してみたのである。幸い、編集部の理解に恵まれ、同連載はすぐに始めることができた。それでも、当初のころは、コンピュータやネットワークの存在そのものが政治的であり、情報技術革命の衝撃はビジネス面だけではなく人文的な面からも見なければならない、という筆者の問題意識に、戸惑われた読者が少なくなかった。 しかし、それからわずか1年半で状況は大きく変化した。つい2年ほど前には、国民の大半は「ユビキタス」も「住基カード」も知らなかった。ところが、いまや、情報技術と政治の交点に関わる記事は連日のように新聞を賑わしている。住基ネットの稼働と反対運動、個人情報保護法や出会い系サイト規制法の成立、2ちゃんねるの相次ぐ敗訴と方針転換、住宅地で増加する監視カメラ、電子パスポートの導入、携帯電話とクレジットカードの連携、ユビキタスと坂村健氏のブーム、e-Japan戦略IIの発表……と、相次ぐ事件の渦のなかで、コンピュータやネットワークのデザイン(アーキテクチャ)が政治的なイシューになることはいまやだれの目にも明らかになっている。法とアーキテクチャの相互作用に焦点をあてるローレンス・レッシグの議論や、ケータイやチャットの潜勢力を評価するハワード・ラインゴールドの視点が本格的に導入されたことも、国内の情報社会論を次の段階に押し上げたと言えるだろう。情報技術が私たちにもたらすものは、単なるビジネスチャンスではなく、まったく新しい社会秩序の可能性であること、裏返せば、その技術をどのように用いるかで、未来の社会の様相ががらりと変わってしまうことに、ようやく多くのひとが気づき始めたのだ。この意味で、昨年や今年は、のち、日本の情報社会化の大きな曲がり角とされる年なのかもしれない。そのようなときに、まさに同時進行的に「情報自由論」を連載できたことは、ひとりの研究者・批評家としてまことに幸せな経験だったと思う。 とはいえ、それは幸せなだけでもない。時代とともに歩むとは、すぐに時代に追い抜かされるということでもある。冒頭に述べたように、いまは「情報自由論」は単行本化の作業に入っている。そこで、章立ての変更や細かい議論の修正、具体例の差し替えを行いながら、いま筆者が感じているのは、情報技術と政治の交点を指し示すという本論の啓蒙的な目的は、実は連載中に現実によって追い越されてしまったのではないか、という空しさである。一年半前には必要だった本論も、出版される半年後にはもう陳腐で古びているのではないか。そして、その空しさのなかで、あらためて筆者が直面せざるをなくなっているのが、人間にとって自由とは何か、という大きく抽象的な、したがって時代とも技術とも無関係な問いである。そもそも「自由」とは何か。ひとはどのようなときに「自由」だと感じるのか。もとより、このような問題に簡単に答えが出るはずもない。しかし、それでも、その抽象的な問いかけをめぐる議論に、筆者の著作は何か目新しいものを付け加えることができるのかどうか。論壇的啓蒙を現実が易々と追い越してしまったあと、「情報自由論」の単行本化の成否は、まさにそこに掛かっているような気がしてならない。 |
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