スタンフォード日本センター
コラム English
 
ハビタート・場・場所
林敏彦
スタンフォード日本センター理事長

 ここのところ「場」の考えが頭を離れない。きっかけは、昨年6月にスタンフォード日本センターで開かれたSPRIE研究会(http: //www.stanford-jc.or.jp/research-project/sprie/outline.html)だった。そこでは日本の産業クラスターについていくつかの研究報告が行われたが、スタンフォード大学のヘンリー・ローウェン教授から、シリコンバレーを1つのモデルとして、特定の産業分野ではなく、新たな産業を次々に生み出していくハビタートとしての地域クラスターの重要性が指摘された。
 ハビタートはもともと生物学の用語で、生息地という意味である。モリアオガエルの生息地、トンボの生息地など、生息地は生き物が成長し、繁殖し、何世代も生き続けるための条件を備えている。その条件とは、気候、地形などの自然条件から、食物連鎖、外敵の不在などの、生物にとってのいわば社会的条件、観察者には未知の条件などから成っているのであろう。野心的で冒険的な起業家を生み出す知的、社会的、文化的環境をローウェン教授はハビタートと呼んでいるように思われた。
 そのハビタートは「場」あるいは「場所」と密接につながっている。人間にとって「場」とは何だろうか。人間について考える前に、物理学の「場の理論」が気になって、竹内薫『「場」とはなんだろう』(講談社ブルーバックス)を読んでみた。この物理学者にして小説家でもある著者の文章力をもってしても、量子力学やファインマン図の解説は難解だ。専門家としては、「なにもないところに波が伝わる不思議」を説明するために、現代物理学が考え出した電磁場、重力場、電子場などの理論をこれ以上できないほどやさしく解説してくれているのだろうが、それでも物理学とは40年以上前に縁を切った私には難しい。
 ただ、おぼろげながら分かってきたことは、現代物理学は物質世界を、原子や電子といった個別の粒子ではなく、それらの間に成立している力や関係性を本源的実体として認識することによって理解しようとしているらしい。「場」とは粒子の集まりではなく、粒子を位置づける関係性が埋め込まれた空間とでも言えばいいのだろうか。
 もしそうだとすれば、学問進化の方向性には奇妙な一致が見られる。WHO(世界保険機関)が「健康」を、単に病気や障害を持たない状態ではなく、完全に肉体的、精神的および社会的に良い状態と定義しているように、医学の関心は、ヒト(生物的存在)から人(社会的存在)に向かっている。社会科学でも、もともと関係性の学問として発達した社会学はもとより、経済学でも、個別主体の善意の行動の合成が社会的誤謬を生むことに関心を寄せている。エコロジーも、エネルギーも、コミュニケーションもすべて、人間を含むトータルな関係性こそが問題となっている。
 もう一冊本を読んだ。清水博『場の思想』(東京大学出版会)で、著者は、生命システム科学の発想から、人間存在の多様性を認め、人間が共に生きる「場」の哲学を構想するという。生命現象は要素還元論では理解できない。人間の体の個々の細胞は、それぞれ異なる役割を担いながら、全体として生命体に自己組織化されているが、その状況は、細胞が人体全体の「場」を共有して生きる共存在者として理解できる。これを理解するには、近代科学の客体への分析ではなく、自己をその一部として含む場に対する拡張された科学技術的方法が必要とされる、という。どうやら、命という現象も、個別細胞と全体のコーディネーションの場としてとらえられるということらしい。
 そう言えば、総長になられたことで大阪大学教授を退官された宮原先生の講演では、情報通信工学の研究者として最後にテーマとしたいのは、ホタルと「気」だとおっしゃった。ある種のホタルは、それぞれ個体がバラバラに点滅を始めるが、やがて群として点滅のタイミングが同期してくる。何らかのコミュニケーションがとれたからに違いない。人間関係や社会にも、「気」による通信、社会的影響、権力、流行、思想など、何を媒体としてコミュニケーションが成り立っているのかよく分からない現象が存在する。通信工学の研究者としては、その謎を解きたい、とおっしゃる。
 最後に、昨年12月ハワイ大学東西センターで開かれた日米中3極セミナー「科学、社会およびインターネット」での議論を思い出す。このセミナーは日本学術振興会と米国科学財団(NSF)とが共同でテーマを変えながら5年に一度開いている日米間の研究対話に、今年初めて中国科学財団(NSFC)が加わって、3極セミナーとなったものである。
 自然科学から人文科学までの研究者が参加したこのセミナーでは、科学研究におけるインターネットの可能性や、社会にとってのインターネットの役割などが議論の中心になった。総じて通信工学の専門家は、機械と機械、人と機械、人と人の間に起こる情報交換を等しく通信の概念でとらえようとしているらしい。ところが、社会科学者や人文科学者にとっては人間同士のコミュニケーションが問題で、それをインターネットがどう変えていくかに関心がある。その意味で興味深かったのは、大阪大学工学部小浦久子さんの「場の感覚と情報社会」という報告だった。
 小浦さんは都市計画の専門家として、人間にとっての場の重要性を強く意識し、それをどう都市の形に表現するかに腐心しておられる。阪神・淡路大震災後何人かの芦屋市の住人にカメラを渡し、最もお気に入りの場所を撮影して欲しいと頼んだどころ、道路、施設らしい建物、マンションなどさまざまな風景の写真が返ってきた。並べてみただけではよく分からなかったが、撮影者に話を聞くと、すべて同じものを撮ろうとしていたことが分かった。それは山だ。すべての写真の遠景に芦屋の北にある六甲山系の一部が映っていた。ここから小浦さんは、芦屋市の住人にとっての場の感覚は、六甲山系に抱かれた場所だったと結論した。高度情報社会の中で、このような場の感覚はどのような変容を遂げるのだろうか、との危惧を投げかけられた。
 アメリカ人の研究者が反論した。自分が育ったホームタウンに行ってみると、以前住んでいた家にも、向かいの家にも知らない家族が暮らしている。すっかり住民が入れ替わってしまって、自分にとって故郷は場ではない、むしろインターネットの中に新しいコミュニティの場を発見している、と。私が、ウェブサイトは場でしょうか、と質問すると、日本人の情報工学の専門家は、いまのウェブサイトはまだ情報量が余りにも少なすぎて、人間の考え方や感性を規定するほどの影響力はない、と答えられた。
 私は考えていた。高度情報社会では、ますます大量の電子信号に翻訳された情報が放射線や紫外線のように私たちの回りに降り注いでくるだろう。しかし人間がそれを持続的生存のために役立てるためには、エネルギー代謝や生殖のように、接触によって体内に取り込み、認識、理解、共感、思想に変換しなければならない。その変換装置こそ、生まれ育った「場」によって形作られていくものではないのだろうか、と。
 私にはまだ答えはないが、もしも場が、運命によってそこに投げ込まれ、そこに敷き詰められた関係性の中で人が育ち、考え方を発展させていく「ところ」だとするならば、私はこのスタンフォード日本センターもそのような場になることを願っている。